長岡の「ランプ会」

 

『長岡市史』[1]から

激しかった戦争も終わり、雪も消え、復興の槌音が聞こえる明治2年(1869)春のある日、表四ノ町(表町4丁目)の商家岸宇吉宅に士族・商人・医師・僧侶・職人の代表が集まった。集会は長岡町の日雇い賃を引き下げることが目的だった。戦火からの復興を、一日でも早く果たすためには、職人の賃銭を引き下げることが、肝心だと主張する士族・商人らに対し、職人は激しく反発した。話し合いは夜半に及んだが決まらず、ものわかれになった。

翌日、岸は寄宿している小林虎三郎に話し合いの模様を告げた。小林は佐久間象山のもとで洋学を修めた人物であった。小林がいうには、職人の日雇い賃を定めておくのは旧来からの悪習である。これからの世は競争となり、職人の技能の善し悪しで、日雇い賃が上下するだろうという。岸は智者の一言は千金に値すると感動し、自宅に有識者を招き、その知識を聴く会を開くことにした。

そのころ岸宇吉の家には舶来のランプがあり、石油を燃料としたランプは、明るく輝いた。会のうわさをきいて多くの人々が集まり、このランプを囲んで会が開かれランプ会と名づけられた。その会で戦争で荒廃した町の復興計画や長岡の商業のあり方を話し合ったのである。幹事のような役目の常議員には士族の三島億二郎、商人の岸宇吉・渡辺六松・目黒十郎・佐藤作平、医師の野直が名を連ねた。神官の三芳野千春、地主の広川真弘・山田権左衛門・笠原文平(三条)、士族の森源三、教育者の藤野善蔵、商人の木宮静一郎・松田周平らも加わった。

長岡病院院長であった野直は明治八年(1875)の『創世記』に、「蘭布会盛行」と書いている。ランプ会は士族・地主・商人などの身分にとらわれず、年々盛んになっていった。加津保沢村(加津保町)の戸長であった鈴木訥叟(総之丞)も九年十一月の日記に、ランプ会に出席したところ、長岡に銀行をもうけようという議論を聞いた、と記している。ランプ会が長岡の経済界に大きなかかわりをもっていたことを、よくうかがわせる。

* * *

ランプ会出席者の日記から[2]

十日夜来雨降午前雪降

(中略)

夜病院、野君宅、ランプ会傍聴出頭、源文呉服町ヘ帰宿、十六大区長三島億二郎君、長岡校事務掛野秋兵太郎君、医師武任庵氏始本日ハ二四五名、議論ハ表一ノ岸宇吉子之租税之義、外細議有之

長岡市立中央図書館蔵鈴木家文書

明治十年「訥叟日記」、1877年12月の項

 


[1] 『長岡市史』通史編下巻、7−8頁。

[2] 『長岡市史』資料編4近代1の巻、336頁。


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