日本留学今昔:東遊運動とルック・イースト政策

 

1997年10月、本学の社会人留学生コースに関する現地事情調査のために、マレーシア、ベトナム、フィリピンを訪ねた。乗り継ぎの中継点となったシンガポールを含めて各国2泊ずつの慌ただしい旅ではあったが、これら各国の日本留学事情を見聞することができた。その詳細な報告は後日に譲るとして以下に雑感を記す。

本学に最大の留学生を送っているのはマレーシアである。「同文」という条件もなく、またその人口に比して同国からの留学生が多いのは、マハティール首相が掲げる「ルック・イースト」政策の下で、日本への留学生送り出しについて充実した特別な予備教育体制を敷いていることが主因である。今回の出張では首都クアラルンプールのマラヤ大学構内にある予備教育部日本留学特別コース(このキャンパス内にマレーシア工科大学の予備教育センターもある)を訪問した。日本政府もここに40人を超える教師陣を派遣して日本語教育の他、数学、物理、化学等の予備教育を支援している。

一方、政府によるこうした予備教育体制が不備な中で、いわば個人的献身によって対日留学の礎を築いてきた人物がベトナムにいる。ホー・チ・ミン市で日本語学校「トン・ヅー学院」を主宰するグエン・ドゥック・ホエ氏である。氏自身、60年代末に南ベトナムから日本に渡った日本留学のパイオニアであるが、帰国後は社会主義圏への留学一辺倒となる統一ベトナムの中にあって日本への留学生のための語学教育、支援活動に専念してこられた。尚「トン・ヅー」とは「東遊」であり、今世紀の初頭に独立闘争を指導したファン・ボイ・チャウらによって主導された日本留学運動を指す。いわばベトナム版ルック・イースト政策であったわけだ。日露戦争後に急増し、1908年には総数2百人を超えたという。フランス官憲の厳重な警戒をくぐり抜け、しかも高額の旅費を工面してこれだけの青年が当時の日本へ留学したというのは実に驚異という他ない。

ちなみにこの時代の日本にはアジアからの留学生が多数集結していたように思う。ファン・ボイ・チャウの例のみならず、帰国後に祖国の独立運動を担うことになる中国、フィリピン等の若き青年達の多くも日本で留学生生活を送っていた。 日本の留学生の歴史は遣随使、遣唐使に始まるが、日本への留学事始めは日清戦争後の清国学生の対日留学を嚆矢とする。絶対数において比較すれば、当時の状況は5万人を数える今日の留学生数と比ぶべくも無いが、当時の日本には一体どのような魅力があったのであろうか。最近日本への留学生数は停滞ないし減少の傾向にあるという。国際関係の基礎を形成する留学生の流れに生じたこのような傾向に対し、我々はもっと敏感にならなければ、と思う。

 

 

本稿は長岡技術科学大学の学内誌"VOS"に掲載されたものです。