経済危機下のアジアにおける
科学技術政策の動向

 

長岡技術科学大学

三上 喜貴

 

はじめに

1997年夏以降アジア各国は深刻な経済危機下にある。依然として危機克服のシナリオは見えない状況にあるが、自律的な経済発展軌道への移行にとって、科学技術基盤の着実な整備が不可欠の要件であることは言うまでもない。本稿では幾つかの基本的指標で各国の科学技術の現状を概観するとともに、ウルグアイ・ラウンド、気候変動枠組条約等のグローバルな枠組の変化との関連を中心に近年の主要な動きを振り返り、併せて経済危機の影響を探る。

 

研究開発活動の水準

研究開発活動に関する統計は全ての国で整備されているわけではなく、また調査から発表までのタイムラグも大きいが、各国における科学技術活動の発展段階を理解するための基礎指標として、各国における研究開発支出の対GDP比率の推移を図1に示す。

既に日本と同程度の水準に近づいた韓国をはじめとして、NIES諸国はこの指標がいずれも1を超えており、他の発展途上アジア各国が0.5以下の水準にあるのと対照をなしている。但しまだこの指標から経済危機の影響を読み取ることはできない。


出典:参考文献1〜9参照。

 


民間企業R&D活動の定着

1970年代の前半までアジアのほとんどの国においてR&D活動の主要部分は農業研究であった。研究者の大半は農業部門に属し、R&Dは主として国の研究機関によって担われた。R&D支出の大半は政府部門によるものであった。

しかし80年代以降、東アジア(韓国、台湾)においては国内の民間企業によって、またシンガポールにおいては外国企業を含めた民間企業によって、民間セクター主導のR&D活動が拡大した。R&D支出の規模と支出全体に占める民間企業比率とで比較するとアジア各国の現状は表1のように整理される。

NIES諸国では民間企業比率が50%を超えており、しかもその過半がエレクトロニクスに集中している。シンガポールにおいては外資系企業比率が著しく高い。中国の場合、表1では国有、集体、株式会社等全ての形態の企業を「民間企業」分として計算した。いずれの形態の企業においても、技術開発項目の選択は「上級機関の指示」から「市場の需要に基づく自己判断」へとシフトしてきており、後者の比率は1992年時点の調査でも59%となっている[1]R&Dの財源構成においても自己資金による割合は約三分の二に達しており、中国企業のR&D活動は急速に市場経済化が進んでいる[2]。また外資系企業によるR&Dも急速にその比重を高めている。

 

表1 アジア主要国のR&D支出総額と民間企業比率

国名

R&D総額

(億ドル)

民間企業比率

企業R&Dの内訳、特徴等

日本

1996

1300

82

 

韓国

1996

135.2

78

電気電子35%、輸送機械23%。

台湾

1996

50.4

57

電気電子50%

中国

1996

39.4

42

金属・機械・化学・鉱業等の伝統的分野が三分の二を占める。外資企業分(独資、合資)は企業全体の14%に達した。

シンガポール

1997

12.7

66

電気電子57%。外資系企業分が71%

マレーシア

1996

2.2

73

PETRONAS分が大きい。外資系企業分は25%(うち日系44%、米系36%)。

フィリピン

1992

1.2

15

農業関連が47%

タイ

1995

2.1

7

電力通信関係が59%、電気電子は5%。

インドネシア

1991

2.2

33

IPTN等多数の国営企業分を含む。

注:外国持ち分が50%以上の企業を「外資系企業」とした。

出典:図1に同じ

 

国内民間企業のR&D活動が未成熟であるASEAN諸国の場合、これを促進するためのR&D補助金や税制を通じた支援策が導入されつつある。外資系企業に対する税制については、一般的な投資優遇措置の枠組の下で、これまでにも「パイオニア・ステータス」等に基づく減税措置が講じられていたが、新規に導入されたR&D優遇措置の多くは内外企業を無差別で扱っている。ASEAN諸国は他国籍企業にとっての単なる生産拠点にとどまるのか、あるいは製品やプロセスのデザインの拠点としても成長しうるのかの岐路に立たされているともいえ、R&D支援策には、こうした転換のための促進効果が期待されている。

 

表2 企業R&D支援のための補助金

R&D補助金

導入年

シンガポール

RDAS: R&D Assistance Scheme

RISC: Research Incentive Scheme for Corporations

IDS: Innovation Development Scheme

1981年〜

1993年〜

1995年〜

タイ

タイ研究基金(TRF)補助金

1992年〜

マレーシア

IGS: Industrial Grant Scheme

MGS: Multimedia Grant SchemeMSC計画支援)

1997年〜

1997年〜

インドネシア

RUK(官民共同研究補助金)

1996年〜

 

ウルグアイ・ラウンドのインパクト

昨年夏以降の経済危機に先立って、アジア各国の科学技術政策に大きな影響を与えてきたのは1995年に発効したWTO協定及びこれと同時に調印された関連協定(「貿易関連知的所有権協定」(TRIPS: Agreement on Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights)、「貿易の技術的障害に関する協定」(TBT協定)等)である。言うまでもなく貿易自由化に関する実施のタイムスケールが設定されたことは各国の産業政策、科学技術政策にとって大きな目標を与えるものであったが、より実施期限のさし迫った幾つかの課題が持つインパクトに注目する必要がある。

 

1)貿易関連知的所有権協定(TRIPS)

TRIPS以前の国際社会においては、各国は知的所有権に関する保護内容を独自に定めることができた。米国の通商法301条等による圧力はあったが、パリ条約、ベルヌ条約等の国際的な条約への加盟は任意であり、仮に加盟したとしても条約が求める義務は内国民待遇、優先権[3]等の限られた原則のみであった。しかしウルグアイ・ラウンド交渉においては「一括合意」が行われたため、WTOの調印国は自動的にTRIPS協定も受諾することとなり、一定の経過期間の後にTRIPSの規定する「グローバル・スタンダード」(例えば、物質特許制度の導入、最低20年間の特許保護等)に準じた知的所有権保護制度を各国内に整備しなければならなくなった。経過期間は「開発途上国」の場合で5年、「後発開発途上国」の場合で11年であるから、それぞれ20001月、20061月が実施期限となる[4]

こうした制度整備に関して、ASEANではTRIPS対応の国内法制整備を個別に進めるとともに、9512月のASEAN経済閣僚会合では「ASEAN知的所有権協力枠組協定」が締結され、ASEAN共同の特許・商標制度創設の可能性を探るとの方針が表明された。まだその実現の可能性は不透明だが、実務レベルでの調整作業が進められている。中国に関しては、この問題は人権問題と並んで米国がWTO加盟を承認しない理由の一つでもあったし、依然として米国は中国を通商法スペシャル301条の優先監視国に指定しているところだが、中国は19973月、WTO加盟が早期実現すれば経過期間を享受することなく即時にTRIPS協定を国内適用する方針を表明するなど積極的な姿勢を明らかにしている。

こうした制度整備と並んで産業界における特許活動の定着を進める努力もまた重要である。現在でもアジア各国における特許申請の半分程度は先進国の多国籍企業によるものであり、これらの国際的企業はTRIPS以降を見据えて既にアジア地域での特許活動を強化している。アジア各国の企業と研究者は技術開発活動自身の強化と並んで、その成果を特許として権利化する活動についても、これに習熟し、技術開発部門の日常活動として定着させていくことを求められている。

 

2)情報技術協定(ITA)

これら一括調印された協定類とは別に、情報産業部門に限って貿易自由化を20011月までに前倒しで実施することを取り決めた「情報技術協定(ITA: Information Technology Agreement)」の持つ意味は大きい。情報技術製品についてはウルグアイラウンドの定める期限よりも一足早く自由化が達成される見通しである。19989月末までにアジアからは日本、韓国、香港、台湾、シンガポール、マレーシア、タイ、インドネシア及びインドの合計9ヶ国・地域が同協定に加盟した。世界の他地域を含めた合計41の加盟国はこの分野における世界貿易の92%をカバーしている。アジアで最後に残された主要国は中国であるが、江沢民国家主席は9710月の訪米時にクリントン大統領に対して加盟に積極的な意向を表明したと言う。

エレクトロニクス・情報産業はいずれの国においても高い国内市場の成長が予想される部門であり、また同時にいずれの国も輸出市場における成功者となることを期待して、デマンド・プル(情報化計画)とサプライ・プッシュ(技術開発)の両面から推進体制をとってきた。

 

表3 アジア各国の情報技術関連計画

国・地域

デマンド・プル

(情報化計画)

サプライ・プッシュ

(情報技術関連RD

中国

三金計画等

863計画」「火炬計画」等の各種国家的R&D計画、各種の合弁半導体プロジェクト等

韓国

 

HAN計画」等の国家計画

台湾

 

ITRIを中心とする各種R&D計画

シンガポール

IT2000計画

半導体関連R&D計画、事業化計画

マレーシア

MSC計画

MIMOSを中心とする半導体関連R&D計画

タイ

IT2000計画

NECTECを中心とする半導体関連R&D計画

フィリピン

NITP2000計画

 

世界的なNII構築構想やインターネット技術の発展が各国における情報化計画の推進を一層加速するとともに、公的資金による研究センター新設や研究プロジェクトの発足に加え、進出した外国企業のR&D活動を支援する政策を強化する動きもある。

 

気候変動枠組条約・生物多様性条約のインパクト

199712月に開催された気候変動枠組条約京都会議(COP3)では途上国に対する削減目標数値の義務づけは見送られたが、先進国・途上国間の協力メカニズムとして「クリーン・デベロップメント・メカニズム」(CDM)が合意され、将来的な排出権取引の実現をにらんで多くの協力関係が二国間或いはAPECのような多国間のフォーラムを通じて模索されつつある。日本政府も「グリーン・エイド計画」等を通じて協力関係構築を進めている。

エネルギー価格が相対的には落ち着いた状態にあること、また特にASEAN地域ではエネルギー多消費型の産業が主力産業とはなっていないことから、ASEANではエネルギー関連のR&Dに対する取組みは総じて弱い。

一方199312月に発効した生物多様性条約に対応して、特に熱帯に属する東南アジア諸国では新たな取り組みが始まっている。もともと生物遺伝資源に関する外国からのアクセスについては、その条件、これを活用して開発された成果の配分ルール等に関して南北間の対立があり、条約において定められた原則規定を如何に具体化していくかが課題として残されていた。アジアで最も早くこの問題への対応を行ったのはフィリピンである。19955月に「生物遺伝資源へのアクセスに関する大統領令」を制定し、生物遺伝資源の取得に関する関係当局・地域住民との事前同意取付け、開発された技術の公開やフィリピン政府への配分等、世界的にみても最も厳しいと考えられる規制を導入した。

日本政府の進める研究協力事業(生物多様性保全と持続的利用に関する研究協力)を始め、欧米各国政府や製薬企業等は熱帯域のアジア諸国との間で資源の探索・記録・保全・活用に関する様々なプログラムを開始しているが、今後この分野は南北間技術協力のもう一つの重要分野となろう。

 

経済危機の影響

このように現在アジア各国の科学技術政策当局が取り組むべき課題は山積している。しかし1997年夏以降の経済危機の下で各国政府は財政支出の大幅な削減を進めざるを得ない状況にあり、科学技術予算と言えどもその枠外におくことは許されない状況に立ち至っている。先に述べたように、現時点ではこれをR&D支出統計から検証することはできないが、幾つかの国については科学技術予算の削減という形で既に顕在化している。

IMFの支援を受け入れた韓国では、科学技術予算を今後三年間にわたって毎年25%ずつ削減していくことが既に決定され、各国立研究機関等はこれを補うために委託研究等による外部資金調達の大幅な拡大が求められている。

タイでも財政支出削減のために科学技術予算は大幅にカットされており、

マレーシアでは経済危機の影響は、対応策をめぐる路線対立からアンワール副首相解任(989月)まで招く事態となり、混乱は一層深まりそうな気配である。マハティール首相の主導してきたマルチメディア・スーパーコリドー計画も現在足踏み状態にある。

インドネシアではスハルト大統領の突然の辞任(984月)により研究技術大臣であったハビビ氏が大統領に選任された。航空機技術者としてドイツでメッサーシュミット社副社長まで務めたバックグラウンドを持ち、これまで同国の科学技術政策を一手に掌握してきたハビビ氏ではあるが、現在のところ政治経済全般の課題に追われる状態にあり、本領ともいうべき科学技術分野で新しい政策を打ち出す動きはない。

この地域において比較的軽微な影響しか受けていなかったのは台湾及びシンガポールであった。

 

【参考文献】

1 中国国家統計局・国家科学技術委員会編、「中国科学技術統計年鑑」、1996年版

2 China Statistical Yearbook 1996, September 1997

3 National Statistics Office, Major Statistics of Korean Economy, March 1998

4 Taiwan Statistical Data Book 1998, June 1998

5 NSTB, National Survey of R&D in Singapore 1997, www.nstb.gov.sg

6 Malaysian S&T Data book 1996, www.mastic.gov.my

7 NRC, A Study on Expenditure and Manpower in R&D of Thailand in 1995

8 Department of Science and Technology, Science and Technology Indicators in the Philippines, 1995

9 STAID/BPPT, Science and Technology Indicators of Indonesia 1993

10 三上喜貴、「ASEANの技術開発戦略」、JETRO19987

11 三上喜貴、「東アジアの産業技術政策の動向」、『JETRO技術情報』383号、19982

12 ADB, Asian Development Outlook 1998



[1] 中国国家科学技術委員会、「科学技術黄皮書第二号」、1994年、65頁。

[2] 参考文献112528頁。

[3]「ある同盟国に出願してから一年以内に他の同盟国に出願した場合は、第一国出願の日に出願したのと同様に扱う」ことを定めたパリ条約の規定。

[4] 正確には、これはTRIPSの一般規定についての経過期間である。内国民待遇・最恵国待遇規定については1年、物質特許については「開発途上国」が10年、「後発開発途上国」が11年となっている。なおアジア地域のほとんどの国は「開発途上国」に分類される。