アジア留学生の長期動態:その留学国選択

 

三上 喜貴*

 

 

Long-term Trends of Asian Students Who Study Abroad:

Which countries do they choose to study in?

 

 

Yoshiki MIKAMI

 

 

The number of foreign students who come to Japan steadily increased after the launch of the "Hundred Thousand Foreign Students Program". But it peaked in 1995. Now it is time to reconsider the question of where they go to study?

The paper examines the long term trends of Asian students who have studied abroad for the last thirty-five years. The major findings of the paper are; (1) the ratio of the number of foreign students who study in Japan to the total number of students who study abroad (the ratio is referred to as the "Preference Rate for Japan", or PRJ) varies very much, depending on the country of origin of the students. The PRJ has been as high as 20% for East Asian students, and as low as 4% for ASEAN students, and 1.5% for South Asian students. (2) Although the PRJ has steadily increased during the last twenty years for all sections of Asia, the PRJ is quite low when compared with other countries. Australia, whose population is only one fifth of Japan's, is attracting more than four times of ASEAN students, for example. (3) The majority of Asian students is studying in the USA, and the preference rate for the USA has been increasing even in recent years, notwithstanding the historical ties with former colonial powers. (4) An exceptional trend is observed only in Middle East country students, 35% of those students choose European countries for study, 25% choose other Moslem countries, 22% choose former Soviet bloc countries, and the USA appears as their forth choice.

The paper gives case studies for selected Asian countries; China, Vietnam and Malaysia. Though these three countries have different historical backgrounds, similar patterns are observed in their changes of preference for the country where their students study.

 

Keywords: Foreign students / University / Asia / China / Vietnam / Malaysia

 

 

 


原稿受付:平成105 

*長岡技術科学大学計画・経営系







はじめに

 

1.1        本稿の目的

中曽根首相のASEAN歴訪を契機として誕生した「留学生10万人計画」[1]の下で、我が国に留学する留学生数は1980年代以降顕著な増加を示してきた。しかし目標値の半分強である5万3847人を記録した1995年をピークとして来日留学生数は減少に転じている。1997年夏の通貨危機以降、アジア各国の経済情勢は急速に悪化しており、これに伴い来日留学生の中には資金的な困難から学業の継続に支障をきたす者も生じている。また新規に留学を志す者も減少することが懸念される。

こうした状況下、我が国に留学する学生の太宗を占めるアジア留学生の動態を長期的な視点から振り返り、「人生の選択」として海外留学を志すアジアの若者達が、その留学国の選択にあたってどのような選好を示してきたのかを分析することが本稿の目的である。

このため、本稿では戦後におけるアジア地域からの留学生の留学先別内訳に関する統計データの分析を通じて、

@   アジア留学生の留学先国はどのような分布状態となっているのか?日本への留学比率はどの程度なのか?

A   アジア留学生の留学先選択において日本が選ばれる比率には長期的に見てどのような傾向が観察されるのか?

B   この傾向には留学生の国籍別に見るとどのような相違があるのか?

等に課題について考察する。

 

.2使用した基礎統計データ

本稿で使用した基礎統計データは主としてUNESCO統計と文部省の「学校基本調査」である。UNESCOでは1962年以降留学生に関する調査を行っており、UNESCO統計年鑑の各年版に公表されている[2]。これは主要な留学生受入国に対して、出身国別の滞在留学生数の報告を求め、これを「留学生フロー・マトリックス」の形で取りまとめたものである。この調査の開始時点においては調査対象となった受入国は15カ国であったが、その後調査年により変動があるが40カ国ないし45カ国に拡大され、1987年以降は受入国50カ国からの報告をベースとした取りまとめが行われている。我が国も重要な受入国の一つとしてこの調査開始以来継続的にデータの提供を行ってきている。受入国50カ国の調査によって全世界の留学生がどこまでカバーされているかについて正確に答えることは困難と思われるが、UNESCO統計年鑑1997年版には「全体の95%を補足している」との注釈が付記されている[3]

 

1.3 留学生の定義

一方来日留学生に関する基礎データを提供するのは「学校基本調査」[4]である。戦後我が国政府により招致留学生の受入が開始されたのが1954年(昭和29年)であり、これを契機として同年からは文部省の実施する「学校基本調査」に外国人学生数についての調査項目が追加され、私費留学生や日本に居住する外国人学生を含めた外国人学生の全体像についての情報が得られるようになった。また1968年(昭和43年)からは国費留学生、私費留学生それぞれについての内訳が併せて調査されてきた。これら各項目の関係は次のようである。

 

外国人学生                  

在日外国人学生

                   留学生                                  国費留学生

                                                         私費留学生

                                                         外国政府派遣留学生

なお、UNESCOに対する日本からの報告のベースとなっているのもこの調査結果である。

なお、留学生の定義については幾つかの考え方がある。一つは「居住地主義」による定義であり、もう一つは「国籍主義」による定義である。UNESCOは前者を採用しており[5]、米国、英国など多くの国は実務上の利便性から「国籍主義」による定義が採用されている。日本も基本的には「国籍主義」に基づいており、「学校基本調査」では、「留学生」とは「出入国管理及び難民認定法別表第一に定める『留学』の在留資格により、我が国の大学の学部、大学院、短期大学、高等専門学校及び専修学校(専門課程)において教育を受ける外国人学生」と定義されている。

 

アジア留学生の留学先構成

 

UNESCO統計に基づき、アジア留学生の留学先地域構成を示したものが図1である。同図はデータの得られる直近年である1995年の状況を示す。全体的な傾向を概観するために、留学生の出身国を東アジア[6]、東南アジア[7]、南アジア[8]、その他のアジア(中近東+中央アジア)に4区分し、受入地域については、主要な受入地域である北米、西ヨーロッパ、豪州・ニュージーランド、旧東欧圏、イスラム圏及び日本の6地域にまとめた(この6地域で全留学生のおよそ95%を占める)。

 

図1 アジア留学生の留学先地域構成(1995年)

  

表1 アジア留学生の留学先地域構成(1995年)(%)

     出身国

留学先

東アジア

東南
アジア

南アジア

その他

アジア

北米

58.5

45.6

72.7

14.9

西欧

14.2

26.9

12.7

34.7

豪州・NZ

4.7

17.8

2.2

0.8

旧東欧圏

0.7

1.7

5.8

22.1

イスラム圏

0.1

1.5

1.0

24.6

日本

18.3

4.2

1.5

0.1

(出典)UNESCO, Statistical Yearbook 1997

同図から明らかなように、留学先地域の選択には留学生の出身国(地域)により顕著な相違がある。東アジア留学生の場合には北米が6割を占め、以下、日本20%、西ヨーロッパ15%、豪州・ニュージーランド5%の順となる。しかし日本が留学先としてこのように相対的に大きな地位を占めるのは東アジア地域の留学生のみであり、東南アジア地域の留学生の場合には北米46%、西欧27%、豪州・NZ18%に対して日本はわずか4%の留学生を受け入れているに過ぎず、南アジアの場合には北米73%、西欧13%、旧東欧圏6%、豪州・NZ2%に対して日本は1.5%の留学生を受け入れているに過ぎない。国際貿易或いは投資の側面におけるプレゼンスの高さに比べ、留学生の受入という側面における日本のプレゼンスの低さは際立った対比をなしている。

以上3地域における留学生のほぼ過半数が米国へと留学しているのに対して、ほとんどがイスラム国家であるその他アジア地域では、全く異なる留学先地域構成となっており、西欧35%、イスラム圏25%、旧東欧圏22%、北米15%と留学先が分散している。この地域の留学生が日本を選択する比率はわずか0.1%である。

こうした中で日本留学比率が比較的高い国は、韓国、中国以外ではミャンマー、バングラデシュ、フィリピン、ブータン、インドネシア、タイ等の国々である(表2)。

 

表2 日本への留学生数・比率が高い国・地域

 

留学生数

日本留学比率

1

中国

22,323

韓国

24.5%

2

韓国

11,785

ミャンマー

23.1%

3

台湾

4,323

中国

20.1%

4

マレーシア

2,128

バングラデシュ

9.2%

5

インドネシア

1,070

フィリピン

7.7%

6

アメリカ合衆国

999

ブータン

6.1%

7

タイ

992

インドネシア

5.0%

8

バングラデシュ

732

タイ

5.0%

9

フィリピン

447

マレーシア

4.6%

10

オーストラリア

368

マカオ

3.7%

(出所)留学生数については文部省資料による。日本留学比率はUNESCO統計年鑑1997年版より。

 

留学先地域構成の変動傾向

 

3.1 UNESCO統計データの補正

ではアジア留学生の留学先地域構成は戦後どのように変化してきたのであろうか。前項と同様にしてUNESCO統計をベースとしたが、時系列の整合性を確保するため、UNESCO統計年鑑に記載された元データに対して筆者が以下のような若干の補正を行った。

@   (日本からの報告データの補正)日本からUNESCOへの報告データは1981年版までは在日外国人学生を含む数値となっており、翌1982年版からはこれを除く数字が報告されている。在日外国人を含む数字は「国籍主義」に基づく数字であり、これを除く数字は「居住地主義」に基づく数字とも言えるが、連続性を確保する観点から筆者は留学生のみの数値に置き換えた。

A   (間欠的報告国の欠落データの補間)旧ソ連、レバノン等、毎年1万人を超える留学生の受入を行っている幾つかの国は継続的な報告を行っておらず、また、これ以外にも受入れ留学生数が相対的に少ない幾つかの国について多くのデータの欠落がある。こうした欠落は時系列的な分析を行う上での継続性に問題を生ずるため、筆者はこれらの「間欠的報告国」の欠落年データを補間推計により補った[9]

 

3.2 留学先地域構成の推移

こうした補正の結果得られた1965年から1995年までの30年間にわたる地域構成の推移を図2に示した。

米国のアジア留学生受入数は基調として一貫して増加しており、アジア留学生のほぼ半数を受け入れている。

西ヨーロッパ諸国はドイツ(5.7万人、1995年)、イギリス(5万人、同)、フランス(2万人、同)を筆頭にほとんどの国がアジア留学生を受け入れている。過去30年間に受入留学生の絶対数は5倍以上の拡大を示したが、世界合計に占める割合にはほとんど変化が無い。

旧社会主義国への留学は1980年代まで揺るかな増加を示してきた。ソ連邦崩壊後の混乱期に一時的な低下を示したが、その後10%程度の水準へと復帰している。なおこの地域への留学生は主として中近東のイスラム教国の学生である。中国、ベトナム、モンゴル等の社会主義国からの留学生数は現在では千人前後の規模へと縮小している。

イスラム圏への留学生は過去30年間に大幅に減少し、1990年代には受入比率10%へと低下した。

これに対して、1980年代以降アジア留学生の受入れを拡大しているのがオーストラリア、ニュージーランドである。1995年時点におけるアジア留学生全体の受入比率は5%であるが、特にASEAN地域からの留学生受入れ規模は大きく、日本のそれを絶対値で上回っている。

日本のアジア留学生受入比率は長期のトレンドで見ると1970年代まで低下傾向にあった。絶対数においては微増であったが、他地域における受入留学生数が大きく増加したためである。しかしながら、「10万人計画」の開始と前後して受入比率は上昇に転じ、1995年時点では6.3%となった。同年における日本のアジア留学生受入数は4.7万人であり、米国(29万人)、ドイツ(5.8万人)、イギリス(5万人)に続いて第4位の受入国となった。

 

図2 アジア留学生の留学先地域構成の推移
1965-1995年)

  

 

 

国別ケーススタディー

 

以上の観察結果を補足するために、本項においては、中国、ベトナム及びマレーシアの3カ国を取り上げ、これらの国からの留学生がその留学先をどのように変動してきたかについて分析する。

 

4.1 中国の場合

中国をめぐる戦後国際政治の変化は留学生統計にも如実に現れている。1964年版から1970年版までの統計年報には「中国(本土)」と「中国(台湾)」という二つの系列が併記されているが、ニクソン訪中(1970年)後、「二つの中国」公認を意味するこのような表記はUNESCO統計からも姿を消し、一つの「中国」の下で合計数字のみが報告されるようになった。このためUNESCO統計では1970年版を最後として台湾留学生を除く数字を得ることが出来ない。また1970年版までの統計年報についても、当時中華人民共和国を未承認であった米国、カナダ、日本等は本土からの留学生も台湾分として計上しており、正確な状況を把握することは出来ないことに注意する必要がある。このような資料上の制約はあるが、日本の受入た中国留学生数については文部省が1977年以降のデータについて本土と台湾に分けたデータを公表しており、これらを手掛かりに分析を進める。

中国の留学生の動向について考察するにあたり、まず文化大革命による高等教育の中断とその回復の過程について概観しておく必要があろう。1966年に始まった文化大革命は中国の人材開発にとっていまなお大きな影響を残している。即ち1966年には中国全土の大学が閉鎖され、以降1977年に再開されるまで中国には高等教育が存在しなかったから、この時期に学齢期を迎えた若者達は完全に大学進学の道を閉ざされていた[10]。本稿執筆時点(1998年)の年齢に換算すれば40歳から53歳までの年齢に相当する。当然ながら文革中は海外留学の道もほとんど閉ざされていたと考えてよかろう。

大学再開の年の翌年、1978年からは外国留学も再開された。米国、イギリス、西ドイツ、フランス及び日本の各国への学部留学生が毎年100名ずつ選抜され、送り出された。その後学部留学生は打切られ、徐々に修士課程、博士課程への留学へと切り替えられていった。

実際、表3に示されるように、本土からの来日留学生は1978年から増加を始め、10年後の1987年には台湾からの留学生数を上回るようになる。日本以外の国への留学生については内訳が不明であるが、1960年代から文革終了までの期間における中国本土からの留学生はほとんど存在しなかったわけであるから、1980年以降の急激な増加の大半は中国本土からの留学生によるものと考えてよい(台湾からの留学生は196070年代を通じて12万人前後の水準であり、既にかなり高い留学生比率となっている。従って、台湾の人口規模及びその増加率から考えて留学生数が急速に拡大するとは考えられない)。

建国当初の中華人民共和国においてはソ連邦をはじめとする社会主義国への留学が大きな比重を占めたものとされるが、UNESCO統計が利用可能となる1962年は中ソ対立が深刻化しつつある時期であり、留学生数も次第に縮小に向かった。表3においてもこのことは如実に現れている。社会主義国への留学は、改革開放路線の定着と並行してむしろ1980年代末以降復活の傾向にある。しかしながらその規模は中国留学生全体の1%程度に過ぎない。

 

表3 中国留学生の留学先推移(1962-1995

合計

 

日本

米国

社会主義国

本土

台湾

本土

台湾

1962

353

11338

0

1346

5724

274

1963

413

12045

0

1586

5730

210

1964

319

14809

0

2191

7201

175

1965

377

16061

0

2479

7559

131

1966

291

18531

0

3229

9137

58

1967

173

19429

0

2856

10025

23

1968

190

21832

0

3332

11157

39

1969

16707

3399

12569

8

1970

17022

3368

12895

7

1971

20379

3305

12353

4

1972

19234

1898

12583

5

1973

15707

1898

12687

6

1974

15174

3127

11427

20

1975

17201

3193

12573

24

1976

18517

3160

13570

26

1977

18863

895

1497

13650

19

1978

21039

23

2622

15899

18

1979

23874

127

2667

18943

30

1980

na

501

2854

na

na

1981

30127

3652

3652

25243

22

1982

27055

1085

3085

20336

17

1983

28424

2136

3152

20557

8

1984

16985

2491

3600

9291

8

1985

42481

2730

4414

33504

1

1986

53378

4418

4340

41821

38

1987

65885

5661

5317

53808

43

1988

70795

7708

5693

52902

49

1989

80179

10850

6063

58055

139

1990

93347

18063

6484

69254

335

1991

109437

19625

6072

82063

206

1992

128561

20437

6138

85917

307

1993

126875

21801

6207

85203

530

1994

126941

23256

5648

85203

609

1995

115871

24026

5180

75556

709

(出典)UNESCO Statistical Yearbook 各年版及び文部省資料

 

4.2 ベトナムの場合

もう一つの事例として、ベトナム戦争、南北統一という波乱の半世紀を辿ったベトナムの留学生の動向を見てみよう。UNESCO統計において、当初ベトナムは「南」「北」両ベトナムと「特定されていないベトナム」という3系列で報告されていたが、1975年の統一以降「ベトナム社会主義共和国」の下で単一のデータとして記載されるようになった。表4は統一前の時期も含めて合計した数値を示した。

まず旧宗主国であるフランスへの留学生数の動態を見る。おそらく1960年代末までの時期、南ベトナム留学生にとっての最大の留学先はフランスであった。北ベトナムからもフランスへ留学するものがあったが、ほとんどはコメコン圏内への留学であった。

UNESCOに対するソ連からの報告は極めて間欠的であるために、欠落部分を筆者が補間を行っているが、こうした補正後の数字によれば、コメコン圏への留学生数は1970年代を通じて6000人から8000人の規模へと増加したと推定され、とりわけ1975年の統一後はソ連の受入が急増している。しかし共産圏諸国への留学生はその後減少に転じ、現在では約1000人程度の規模となっている。こうした共産圏諸国への留学生は現在の年齢でいえば40代以上の年齢層に対応しており、ロシア語に堪能な世代を形成している。

一方、米国への留学生は統一後急増した。これは留学のための渡航というよりも、むしろ難民としての渡航、留学という経過をたどった若者が大半を占めたものと思われる。米国では留学生の定義について「国籍主義」をとるから、難民として定着した若者も、米国市民権をとるまでの間は留学生として扱われる。こうした米国への留学生数は、難民の減少とともに次第に収束に向かう。

日本への留学生数の推移には統一前後の一時期、米国と似た状況があったものと思われるが、いずれにせよその規模は小さく、現在においては全留学生の23%を占めるに過ぎない。

 

表4 ベトナム留学生の留学先の推移(1962-1995

対象年

合計

米国

フランス

日本

社会主義国

1962

1943

421

1522

25

2825

1963

2145

430

1715

33

2859

1964

2643

399

2244

60

2842

1965

2408

352

2056

83

2506

1966

2287

401

1886

145

2686

1967

2082

657

1425

127

3169

1968

2332

882

1450

143

4636

1969

8996

993

1057

192

4947

1970

11585

1198

1057

238

6739

1971

12743

1339

1057

378

6956

1972

13219

1621

1282

563

6813

1973

10251

 

400

563

8906

1974

17198

2066

2837

751

8342

1975

12171

3182

2833

709

7534

1976

16587

8910

2227

524

6835

1977

12842

6651

1813

524

6255

1978

15158

6070

1611

227

5635

1979

12615

5050

1519

133

5515

1980

 

 

 

 

 

1981

12403

4940

1332

104

5722

1982

7424

3952

1332

47

5502

1983

7036

3952

1093

31

5222

1984

5692

2753

1016

27

4969

1985

6011

2803

1036

27

4674

1986

5342

2381

860

32

4387

1987

4962

1890

808

32

4100

1988

4360

1350

778

33

3823

1989

7295

1671

810

45

3580

1990

7192

1251

897

45

3254

1991

6405

595

929

45

3047

1992

5008

447

1005

61

1884

1993

5292

507

1054

61

1430

1994

5126

507

1054

61

1219

1995

6280

922

1054

164

1211

(注)表中イタリックで示した数字は筆者の推計を含む。

(出典)UNESCO Statistical Yearbook 各年版

 

4.3 マレーシアの場合

マレーシアは1957年に英連邦から独立してマラヤ連邦となった。英国の植民地時代に創設されたマラヤ大学はシンガポールを本拠地とし、クアラルンプールには分校を置くに過ぎなかった。その後シンガポールの独立を契機にこのクアラルンプール分校はマラヤ大学(Universiti Malaya)の名称を継承し、マレーシアで唯一の国立大学となった。独立後大学の入学試験のマレー語化を進める政策がとられたことに加え、マレー人優先の教育政策を持つマレーシアにおいては、国民の40%近くを占める中国系、インド系の若者にとっては国内での大学進学への門は狭く、その多くが海外へと留学する道を選ばざるを得なかった[11]1970年代以降相次いで国立大学が新設された後もこの状況は変わらなかった。

 

表5 マレーシア留学生の留学先の推移(1962-1995

対象年

合計

米国

旧英連邦諸国

日本

イスラム諸国

1962

5524

238

5139

89

49

1963

7081

283

6533

128

101

1964

7721

361

6960

188

176

1965

7595

343

6816

207

175

1966

7687

345

7011

115

164

1967

7464

448

6639

117

176

1968

7582

517

6654

147

170

1969

8079

663

7107

170

85

1970

9476

836

8343

186

51

1971

11411

838

10250

202

53

1972

12706

950

11434

194

49

1973

13179

1086

11752

194

61

1974

12038

1580

10083

136

126

1975

16162

1930

13839

124

113

1976

19811

2870

16448

129

102

1977

18824

3250

15042

129

95

1978

22324

3560

17710

144

558

1979

19544

3660

14914

136

522

1980

 

 

 

 

 

1981

35693

9420

25358

143

564

1982

32850

7537

24639

156

287

1983

30107

7537

21702

204

269

1984

42281

18568

22785

343

297

1985

40493

19758

19649

343

248

1986

38980

19096

18569

678

182

1987

40324

19480

19529

678

191

1988

36278

14021

20614

983

217

1989

29528

12720

15138

1050

234

1990

31497

12192

17452

1050

380

1991

32727

12645

18179

1050

404

1992

34397

12655

18952

1742

536

1993

35840

13718

18902

1742

770

1994

35797

13718

18968

1742

662

1995

41159

14015

23276

1879

1321

(出典)UNESCO Statistical Yearbook 各年版

 

こうした中で、留学先は当初ほとんどが英連邦諸国であった。イギリス本国はもとより、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、インド等が主な留学先であった。1970年代まで英連邦への留学比率は90%を超えていた。しかし70年代後半以降に米国への留学が拡大するにしたがってその比重は低下しつつあり、現在では50%台となっている。なお、旧英連邦諸国では大学入学資格について、統一的な試験が実施されてきており、このことも英連邦内への留学比率を高める大きな要因となっている。

こうした中で日本への留学生は100200人の水準であったが、マハティール首相が「ルック・イースト」政策を唱えた1980年代以降日本への留学生が増加を始める。1980年代末には1000人を超え、1997年には2000人に達した。マレーシアの場合に特徴的なことは派遣国政府の支援態勢が充実していることである。

 

まとめ

 

本稿においては、留学生統計データの解析に主眼を置き、アジア留学生の留学先選択の状況を概観した。その背景や専攻分野の分析については後日の課題としたい。以下に得られた主な結論をまとめておく。

 

@            日本への留学比率は留学生の出身国により相違があるが、東アジア地域を除けば極めて低い。経済的に密接な関係にあるASEAN諸国においてすら日本留学比率はわずか4%であり、東アジアを除くアジアで見ると、留学生全体の1.5%の学生が日本を選んでいるに過ぎない。

A            アジア留学生の日本留学比率は1970年代まで低下傾向にあったが、「10万人計画」を契機として順調に上昇してきた。1995年においては米国、ドイツ、イギリスに続く第4の留学先となった。

B            米国は1960年代以降一貫してアジア留学生の米国留学比率を高めてきており、現在ではアジア留学生の半数弱が米国を留学先として選んでいる。これは、ヨーロッパの植民地であった歴史を有する国の留学生についても当てはまり、旧宗主国への留学比率は低下傾向にある。

C            イスラム圏への留学比率は過去30年間に大きく低下しており、旧社会主義圏、西ヨーロッパ全体の留学比率は長期的に見るとほぼ横ばいである。

 

 



[1]19838月の「21世紀への留学生政策に関する提言」及び19846月の「21世紀への留学生政策の展開」を踏まえ、10万人の留学生受入れを目途に推進されている渡日前から帰国後までを含む総合的な留学生受入計画。

[2] UNESCO(国際連合教育科学文化機構、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)は国際連合の専門機関の一つであり、194611月に発足した。UNESCO統計年鑑は、発足7年後の1963年から刊行されており、留学生に関する統計は初年度版から登場する。日本国内では、国会図書館及び東京大学総合図書館の国連寄託図書館等に創刊以来のUNESCO統計年鑑各年版が所蔵されている。ユネスコ文化センター図書館及び文部省図書館にも1969年版以降及び1981年版以降の各号が収蔵されている。本稿の執筆にあたってはこれらの各図書館スタッフのご協力を得た。ここに記して謝意を表す。

[3] UNESCO Statistical Yearbook 1997, note to table 3.14

[4] 指定統計第13号。全国のあらゆる教育施設を対象として、毎年51日時点における学生・生徒、教官、施設、卒業後の進路などに関する事項を調査している。

[5] UNESCO"a foreign student is a person enrolled at an institution of higher education in a country or territory of which he is not a permanent resident"と定義している。(UNESCO, Statistics of students abroad 1962-1968, p.9

[6] 中国(台湾を含む)、香港、マカオ、韓国、モンゴルを東アジアとした。

[7] 未加盟のカンボジアも含め、いわゆるASEAN10をここに含めた。列挙すれば、ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナムの10カ国である。

[8] インド亜大陸の諸国。バングラデシュ、ブータン、インド、ネパール、モルジブ、パキスタン、スリランカをここに含めた。

[9] 補間推計にあたっては単純な等差補間を行った。

[10] 1966年から1972年までは全国の大学が完全に閉鎖され、1973年からは工場、農場、軍隊の中から選抜された「工農兵学員」と呼ばれる学生を試験的に学ばせることが始まった。1974年には周恩来の主張により無試験入学制度を改め、入学定員の3倍の推薦を受け付け、これらの候補者間で筆記試験をする方式がスタートしたが、この年の入学試験で有名な「張鉄生事件」が起きる。張鉄生は答案用紙を白紙で提出し、その裏面に「我々労働者に対して筆記式の試験を行うことは不合理である。我々労働者を選抜するならば、手に出来たマメの数で選抜を行うべきである」との抗議文を欠いて提出した。この事件は直ちに全国的な共感を呼び、翌1975年には再び無試験による入学制度に戻り、これは1976年まで続いた。このような紆余曲折を経て最終的には1977年に大学が再開され、12年間の空白期間を経て入学試験が再開された。

[11] マレーシアの第七次国家計画には次表に示すような人種別の進学状況が記載されており、中国人やインド人の場合、マレー人に比べてはるかに留学比率が高いことが分かる。国内での大学進学の門が狭い中国系及びインド系(東南アジアの場合多くはタミール系)の若者はこの地域における私費留学生の予備軍を形成している。

マレーシアにおける人種別の進学状況(1983年)

 

大学

マレー人

中国人

インド人

その他

合計

国内6校小計

17,994

7,755

1,948

483

28,200

(構成比)

63.8%

27.5%

6.9%

1.7%

100%

海外留学

7,835

21,181

4,936

1,331

35,283

総合計

25,829

28,956

6,884

1,814

63,483

(出典)The 7th Malaysia Plan

 

参考文献

 

UNESCO統計年鑑1964年版−1997年版

UNESCO, Statistics of students abroad 1962-1968

Institute of International Education, Open Doors 1996-1997

文部省留学生課、留学生受入れの概況、1997

文部省、学校基本調査、各年版

文部省、Outline of the Students Exchange System in Japan, 1997

中華人民共和国国家教育委員会、Educational Development in China, 1996

Curtis Andressen, Educational Refugees: Malaysian Students in Australia, Monash University, 1993

栖原暁、「絵空事だった『留学生10万人』構想」、RONZA 1997.9-10